死に向き合う心構え

いつ死んでも後悔のない精神とは、どのようなプロセスを経れば醸成されるのか




2017年08月13日(Sun)
死に向き合う心構え
人間は必ず死んでいく存在である。それはあまりにも孤独で淋しいことである(逆もまた真である)。現実に死は紛れもなく間違いなくやってくる。夢でもなく幻想でもなく人間はこの世から消えていく存在でもある(実は共同幻想なのかも知れない)。


人間が不老不死を求め、生命の永遠性を求めた歴史はあまりにも本然的な感情から生じたと言える。そしてまた、限られた時間を精一杯楽しく生ききるのも自分自身なのである。
考える葦と名づけられた人間が、この世に生を受け「存在の証明」をするためにやるべきことがあるとすれば、「肉体的な永遠性」ではなく心の「絶大なまでの永遠性」を残すということになるだろう。それはまた善に貫かれていなければならない。(これが思想であり、哲学であり、畢竟宗教である)

ふと足元を見れば「死も怖れない・あらゆる苦悩もものともしない淡々とした人間の生きざまもあるのだ」ということに気づく、「人間が嘆き悲しんでいる全ての事柄は人間の本来のありようであるのであり、自らを卑下し軽しみ傷つけることはないのだ」ということに気づく、「自由に悠々と飛び回って淡々と死んでいくというのが良い」と気づく、畢竟、「苦悩と苦悶と苦痛と、どう付き合っていくかに人生の面白さが具わっている。」


松陰曰く、死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。
世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。


   


哲学の領域について初めて踏み込んでみる。
今まで哲学についての知識や認識を持っていたわけではないが「ソクラテスの弁明」というタイトルは中身はさておき興味深いものとして意識の底にあった。

・ソクラテスは何故死を回避しなかったか。
・ソクラテスにおける人間の「死」の中で、人為的な「死」が肯定される場合と否定される場合があるとき、人為的な死の執行を否定する自分が肯定する自分を十分に超越しない限り受け入れるという選択もあるのだということを示す。


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カレンダ
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